タイ訪問記

数日お休みを頂いて、リクルート時代の上司とタイに行ってきました。新卒で入社してたったの3年しか在籍しなかったんですが、当時の先輩方や同僚とは20年以上に渡ってお付き合いが続いています。有り難いことですね。



ちょっと話が遡りますが、何故私が就職先にリクルートを選んだかというと、情報通信事業に進出していたからです。大学の卒論を書く時に、堺屋太一さんの「知価革命」を読んだんですよね。

今手元にその本がないので実際の表現は分かりませんが、「従来の産業革命は人間の体で言えば筋肉系の発達。これからは神経系の発達、つまり情報通信革命が起こる」という旨の記述があり、衝撃を受けたことを覚えています。そうか、イギリスで内燃機関が発明されて起こった産業革命に匹敵する大きな歴史の波が来ているのか、それなら是非その世界に関わる仕事をしたい。そう強く思ったのです。色々経緯がありまして、当時内定を貰っていた野村證券・百五銀行(実家のある三重県の地銀です)・リクルートの中から選択しました。リクルートの社員さんに人間的な魅力を感じたのも大きかったんですけどね。



当時の日本は1985年のNTT民営化により、第二電電(現:KDDI)を始め財界に通信事業ブームが巻き起こっていました。端末を開発する機器メーカーや、インフラを所有するJR・トヨタなどの巨大資本グループも巻き込んで、正に時代は通信一色。虚業の誹りを挽回するために実業の世界に強烈な憧れを持っていたリクルート創業者の江副浩正会長は通信事業への参画を強く希望しますが、エスタブリッシュメントの壁は厚く願いは叶いませんでした。一種事業者になれなかったリクルートはNTT回線のリセール(単に仕入れて再販するだけ)という非常に中途半端な事業形態の選択を迫られます。しかし江副さんの情熱、いや執念はそれはそれは恐ろしく強烈なものでした。社内の各事業部から猛者が一斉に通信事業部門に異動します。更に従来全く社内にいなかった理系人材の採用。私が入社した1989年の時点で、社員総数は約3,000人。しかし1988年の新卒採用数は約1,000人、1989年が800人、1990年も1,000人近くを採用したのですから、その異常振りがお分かり頂けるでしょう。社内の使えるリソースは全て、足りないものは力ずくで社外から中途採用で人を集めまくったのです。「女の子がアイスクリームを売るように通信回線を売りに来る」と揶揄されたのは決して大袈裟ではありませんでした。だって事実通信事業の素人集団だったのですから。それからの数年の経験は、まさにジェットコースター。バブル経済の過熱と相まって、毎日がお祭りでした。課が三ヶ月事に増えるんです。半年で新しい部が出来て、当然フロアが足りなくなるから借り増しして、恐ろしい勢いで組織が大きくなっていきます。元々日本トップクラスの営業力を誇るリクルートが、全精力を傾けて通信回線を売りまくりました。全上場企業を廻り尽くして、それでももの足りずに帝国データバンクに収録されている全ての会社を全員がローラーで営業しまくったのです。あの熱気は経験したものにしか分からないでしょう。

 毎日が手探りでした。通信の基本的な仕組みを勉強会で共有し、海外製の通信機器を購入してバラしてみたり。NTTにはあらゆる無理をお願いして、局舎内に設備を置かせてもらい、回線のオープンに融通を利かせてもらい、みるみる日本有数のネットワークが構築されていきました。当時のリクルートのカルチャーはNTTにもショックだったでしょうね。全くの素人が長期計画とか何も無しにいきなり回線を売ってくるんですから、異星人を見る思いだった事でしょう。でも当時の経験があったからこそ、先述した局舎や足回り回線の開放といった今の通信ビジネスに必要なリソースシェアの仕組みが出来たのだと思います。



ところが、元々事業構造に無理があります。原価はNTTが握っているし、一種免許もないから独自のサービスを展開するにも自由な企画を通す余地が少ない。当然ライバルとの熾烈な価格競争に陥り、一種事業者の攻勢を跳ね返すことが無理だということが見えてきました。その当時の事業部長が今回タイにご一緒した石原さんです。創業者であり天皇だった江副さんに正面から刃向かい、「この事業はもうダメです。」と事業撤退を進言して江副さんの逆鱗に触れ事業部長を解任されました。当時のメンバーは皆落胆したんですよ。毎日通信事業とはどうあるべきか、我々に何が出来るのか、時代の先行きは、何て熱い会話が酒場で交わされてました。結果的にはリクルートは数年後に全ての通信事業から撤退を余儀なくされます。一部残ったFNX事業も今は当時のライバルだったインテックに売却され、石原さんの意見が正しかったことが証明された訳です。既にリクルートを退職して零細ソフトウェアハウスに転職していた私も、元同僚達と苦い酒に付き合いました。結局江副さんの夢は叶わなかったのですね。戦後最大の経営者と賞賛された江副さんは、焦りから未公開株の譲渡というグレーな手段に手を染めて、リクルート事件で表舞台から退場してしまいました。あんなに熱かったお祭りは終わったのです。



そんな時代の思い出話や、裏話。江副さんの本当の人間像。繰り広げられた社内政治の裏側や重要人物のその後の行く末。当時新入社員の私が知り得なかった濃い話を石原さんや鷲津さん(当時の次長)に数日間たっぷり聞かせて頂きました。とても貴重で勉強になる課外授業でしたね。あの当時のリクルートに匹敵するだけの活力を持っているのが今のソフトバンクと孫さんでしょうか。彼らは非常に賢く通信分野に基盤を作り上げることに成功しましたね。20年掛けて、独占企業NTTの牙城をこじ開けたのです。ソフトバンクだけじゃなく、日本の通信事業の黎明期に精力を傾けた全ての関係者の努力が実ったのだと思っています。



タイの話なんでした。タイ、ここも20年振りの訪問です。ほほえみの国と表現される穏やかな国民性と安定した政治状況が、この国の近年の発展の基盤です。現地を訪れてみると、驚くほど物価が安い。タクシーの初乗りは35バーツ。円高のお陰で、×2.5ほどのレートなので、90円弱の計算です。有名なタイ式マッサージは一時間が200バーツ、つまり500円です。チェンマイの大卒初任給は8,400バーツ、21,000円ほど。道路工事の作業者の日給は180バーツだそうです。経済発展したとはいえ、まだまだ貧しい国なんですね。しかし出会った人々は皆優しかったです。治安も良くて、夜に出歩いても怖い思いをする事もそんな雰囲気もなく、屋台でビールを飲みながら現地の食べ物を食べ、旧都のスコータイ遺跡やゴールデントライアングル地帯なんかを観光して歩きました。色々エピソードはてんこ盛りなのですが、ここでは省略。(笑)

 洪水は、我々が滞在した期間はバンコク市内も問題ありませんでした。アユタヤは冠水していましたが、迂回すれば道路網も機能していましたし、国際空港はもっとも重要なインフラとして最優先で対策されていました。何とか洪水の被害が最小限で済むことを祈っています。正直、今の首相はタクシン派というだけで選出された事もあって、政治手腕は不安視されています。せっかく各国メーカーの工場が進出してアジア有数の生産センターとしての地位を確保していたのですから、何とかうまく対応して欲しいですね。今週末が山場らしいです。



というわけであまりに長くなったのでこの辺で。タイの人々の笑顔に癒されながら、深い話も沢山聞けた、とても濃い旅でした。