学ばない子供と消費社会

今日の日経夕刊最終面に、哲学者の内田樹(うちだ・たつる)氏が面白いコラムを寄稿していました。



賞味期限切れ問題の不二家は、「晴天型社会」の典型なのだそうです。

晴天型社会とは、自分たちの生きている狭い範囲の社会しか念頭になくなり、外部の社会の存在を忘れてしまった、ある意味平和な社会なのだとか。

同業者との競争にだけ集中して、食品衛生法や消費者の視点を忘れてしまったこの集団心理を「父親の子育てが陥りがちな陥穽」と指摘しています。



対して、母親型の子育ては、直感的に子供が弱者である事を認識しているので、外部の敵からターゲットにされにくいよう大きな集団に埋没させる事を志向するのだとか。

これを「荒天型モデル」と名付けています。



本来、晴天型と荒天型の両モデルは相互補完的でどちらが良いという性質のモノではないのですが、戦後長く続いた平和のお陰であらゆる分野で深刻な想定外の危機に直面するリスクを考慮しなくなった、とも指摘しています。



外的リスクを考慮に入れずに個人の興味の赴くままそれぞれの趣味嗜好に走ると、自然と集団は細分化され、消費の単位が個人レベルになっていきます。

家族皆で見ていたテレビは、いつしか家族の人数分に増え、それが消費マーケットの総量を押し上げてきました。



そして、80年代以降の子供達は、消費者として社会的経験をスタートさせている、とも指摘しています。

子供達が、「それを学ぶ事に何の意味があるのですか?」と平気で大人に問うのは、この消費者意識のためだ、というのは納得が行く思いです。

消費者は、目の前に提示された商品・サービスの価値や有用性を直感的に判断し、自分に役に立たないと思えば購入しない、という選択権があるからです。



本来教育とは、ある一定のレベルに到達するまで学ぶ事の意味など分かりません。

学び終えてはじめてその意味が自身で理解できるのであり、そのことこそが学ぶ事の動機づけになるものだからだ。子供にも理解できるような動機づけで子供を学びに導く事はできない。


大人になってから学ぶ事の重要性に気付き、「勉強しろ」と頭ごなしに言われ続けた子供は学ばずに大人になる、という再生産サイクルは多分永遠に続くのでしょうね。(笑)