クラシックカー取引の注意点

恐らく多くの方はクラシックカーを実際に買ったことはないと思います。私もそれほど経験があるわけではありませんが、仕事がら多くの事例を見聞きしてきました。非常に経験の深い方のお話しをお聞きする機会がありましたが、現実の状況は普通の常識とはかけ離れた世界です。

普通の方は、買ったクルマは万全の状態であると信じていますよね。ここがそもそも違います。確かに国産・輸入車を問わず新車をディーラーで購入すれば、それは安心できます。新車保証もついていますから、通常は3年程度はメーカーが品質を保証し、何かあれば無償で交換・修理対応が受けれます。

しかしこれが中古車だとどうなるか。普通は販売店が保証を付けているでしょうね。これはお店によって違いますが、概ね1年、年式の古いクルマでも半年程度は保証を付けるでしょうね。逆に保証を付けれないなら、その店は自信のないクルマを売っているのかという話になります。ここも当たり前として皆さんお考えでしょう。

これがクラシックカーになるとどうなるか。保証はあり得ない世界になります。何故なら、そもそも何十年も昔のクルマが万全のコンディションで保存されていることは皆無に等しく、誰も責任を負えないのです。クルマを構成する部品は3万点と言われていますが、この中にはゴムやパッキン、マウント、シール、などの経年劣化する部品も含まれています。そもそも機械部品が壊れずに動く限界は、普通に考えて10年がいいところでしょう。クラシックカーの世界は製造後何十年、ヘタしたら戦前のクルマを扱うわけです。壊れていない訳がない、という話なんですね。ここを普通の新車や年式の浅い中古車の感覚で考えると、トラブルになります。

極端な話、引き渡されたクルマを受け取ったその場で運転して、動かした途端に壊れた、なんてことが本当に起こります。エンジンの始動一つ取っても、クセのある個体もありますから慣れた人が扱わないと一発で壊れます。半クラッチの扱いも細心の注意が必要です。不慣れな人間が不用意に動かすと、その場で壊れます。これをクレームであげてしまうと、売り手も困ってしまうのですね。ですから、現状渡しでノークレーム・ノーリターンがクラシックカー取引の原則なのです。

そんな世界は怖くて入れない、入りたいけど入れない。そんな人が沢山いらっしゃることと存じます。確かにそれなりに気合いを入れないと踏み込めない世界ではあるのですが、そこでしか得られないワクワクする魅惑の異次元ワールドがあるのも事実なんです。私たちは、この世界への取っ掛かりをご提供したいのです。

怖くて入れない空気を醸し出しているのは、一つには業界のプレイヤーの体質に問題があります。端的に申せば、古いのです。信じられないかもしれませんが、クラシックカー取引の世界では、売り手が主人で、買い手は僕(しもべ)なんです。売ってやる、買わせて頂く、が当たり前。これっておかしいですよね。そもそもは情報の非対称性が存在したからこその慣行なのだと思います。クルマ屋さんの方が詳しかったんですね。しかしこれはネットの時代で様相が一転しています。今や情報収集能力の高い個人の方が、情報に関しては専門のクルマ屋さんを上回ってきていると感じています。時代が変わったのです。

私たちの思いは、このネットの普及した二十一世紀に適した、現代的で透明性の高い合理的なプラットフォームをご提供することにあります。古い業界を、今風のイケてる業界に変えたいのです。そしてこの世界に新しい顧客層を生み出したい。そしてクラシックカーの世界を活性化させ、発展させたいのです。そこにみんなの笑顔が待っているはず。

色々ハードルがあるとは思いますが、このサービスの手応えを感じています。皆さんと繋がれる日がくることを楽しみにしています。

農業の未来

私の実家が農業生産法人を営んでまして、父親の株式を受け継ぐことになりますので色々将来の布石を打っています。残念がら経営が古いので近代化を進めたいのですが、考えるポイントは大きく二つあります。一つは生産効率の向上で、これは量を追う戦略。もう一つは高付加価値の追求で、こちらは質を高める方向です。さて、どちらを目指すべきか?

恐らく一般的に、農業経営の近代化は生産効率を上げて量を追うことを意識していると思います。しかし天候不順や果物などの嗜好品を除いては、基本的にコメも野菜も市場全体では量は足りています。下手をすれば余っている状況で単に量を追い掛ければ、それは不毛な安値競争を招くだけです。世界全体では食糧は足りていないのかもしれませんが、こと日本市場向けのビジネスを考えるなら量ではなく質を求めなければ誰も幸せにならないと思うのです。では、質をどう追うか?

トマトやイチゴなんかは汎用品の数倍する高単価な商品が珍しくありませんよね。その戦略が、コメや麦や野菜で成り立つのでしょうか。果たして三倍の値段がする米を買うかと言われると、それはないと思います。そこはスイーツと主食の差、糖度でわかり易く差別化できないと思うのです。よほど品種改良が進んでビタミンやミネラルが豊富に摂取できるとなれば別ですが、バイオの領域は零細企業の手に負えるものではありませんからね。となると、どこでも手に入る品目は捨てて、特殊なニッチにフォーカスすべしとなるのだと思います。これも普通の農家には簡単なことではない。

私が考える高収益な農業ビジネスとは、IoTやビッグデータによるスマートIT農業か、AIやドローンやロボットなんかの最先端農機具を開発するハードウェアメーカー(但しファブレス)という発想になってしまいます。これ、普通の農業の範疇を超えてしまっていますね。今の枠の延長で考えてもスケールする気がしないのです。だからこぞって参入した大企業が軒並み撤退してしまってるんじゃないでしょうか。

一つ現実的な切り口は、あまりに劣悪な労働環境を常識的なレベルに改善してあげることです。農業には普通の労働基準法が適用されないってご存知でした? 週に一日も休日なくても構わないし、割増残業手当を払う義務もないんですよ! 現代の日本で本当にこんな運用が許されているのか、目を疑ってしまいました。

農の労務管理ガイド

特殊なことをしなくても、普通の労働環境で、普通に収益を生み出すことはそれほどハードル高くないはずです。全国の地域農業の担い手が意識改革を進めれば、明るい農村、住み続けたくなる農村が実現できるのではないでしょうか。ますそこから手を付けたいと思っています。

CARZYが目指すもの

トヨタの豊田章男社長は言いました。「愛と付く工業製品はクルマくらいですよね」と。そう。家電やスマホに愛という言葉はあまり使いませんよね。でも自分の愛車をそれこそ子どものように愛でるクルマ好きは沢山います。それだけクルマというのは思い入れの持てる、愛着の湧く存在なのです。

いま、100年ぶりにクルマ環境が激変しつつあります。移動の手段としての社会インフラの側面が強くなり、自動運転やシェアリングサービスなど、どんどんクルマがコモディティ化していきます。それは社会の要望に応える道ですから、否定はしません。しかし、一定数のクルマに愛を求める層の気持ちは置いてきぼりなのです。CARZYはCar Crazyのために、思い入れを持てるカーライフの充実に貢献したいと考えています。

私たちはそのために、コレクタブルカーの個人間売買サービスをご提供しようと考えました。対象をコレクタブルカーに絞ったのは、愛着を持てる対象としてのクルマにフォーカスしたいからです。ミニバンや軽に存在価値がないとは言いませんが、次世代に残す価値のある趣味性の高いクルマとしては対象にしない。クラシックカー、スポーツカー、希少車、そういった愛すべきクルマ達をまずは専門に取り扱いたいのです。

個人間売買サービスというコンセプトは、現状の中古車業界について恐らく多くの人が感じている問題点を解決するための手段として考案しました。ネットというディープインパクトがもたらされて早20年が経ちますが、いまだにクルマ業界は古い体質を抱えたままです。沢山の分野で情報の非対称性が解消されつつあり、数多のマーケットプレイスが市場の歪みを補正してくれています。いまやネットで消費者が必要な情報を入手できて当たり前。なのに、中古車に関してはあまりに仕組みが古いのです。それは趣味車の分野において顕著。クラシックカーに興味はあっても入っていけない。難しそう、だまされそう、なんだか怖い。そんな印象を一般のクルマファンは拭いきれず、派手なパレードを遠巻きに眺めているだけだったのです。

何が原因か。私たちは、透明性の高いマーケットが整備されていないことに原因があると考えました。コンセプトのイメージは明確。「趣味車の分野におけるメルカリ」です。売り手と買い手が直接つながる、オープンで透明性の高い現代的な取引市場が求められているのではないでしょうか。これは中間業者の中抜きと考えられるかもしれません。確かにその側面は否めませんが、それ以上に公明正大なマーケットの創出は新しい大きなユーザー層の創出につながると信じてもいます。多少の摩擦があったとしても、結局は業界全員の幸せに結びつく。それは歴史が証明する真理だと思います。

いま、少しずつ準備を進めています。最初に公的な場所でお披露目させて頂くのは、5/13(日)の北野天満宮でのイベントです。CARZY The Sports Car Heritage Gathering 2018 KYOTOでお目にかかりましょう!

Disruptionということ

Amazonは、街の多くの本屋を潰してしまいました。それは悲しいことなのですが、やっぱり消費者としてはあの利便性の前に降伏するしかない。マーケットでは常に顧客が正しく、プレイヤーはそのルールに従うのみ。抵抗するなら、自分が存在する価値を証明してみせないといけない。できない者はただ黙って退場するだけ。

強者の論理かもしれない。自分が強者でいられる保証も自覚もない。でもそうありたいと努力しなければ残れないのが現実。

新しいサービスを設計する時は、やっぱり現実世界の歪みや不合理を正すことを考える。私たちが提供しようと試みるサービスは、そこでメシを食べている既得権益の人たちを敵に回すかもしれない。実際、激しい抵抗に遭っている事例も耳にする。それでもやっぱり前に進まずにはいられない。それが世の中を良くする道だと信じるから。

メキシコ人漁師の寓話

とある所で、懐かしいものを見かけました。みなさんはこのお話しをご存知ですか。
メキシコの田舎町。海岸に小さなボートが停泊していた。

メキシコ人の漁師が小さな網に魚をとってきた。

その魚はなんとも活きがいい。それを見たアメリカ人旅行者は、

「すばらしい魚だね。どれくらいの時間、漁をしていたの」 と尋ねた。

すると漁師は

「そんなに長い時間じゃないよ」

と答えた。旅行者が

「もっと漁をしていたら、もっと魚が獲れたんだろうね。おしいなあ」

と言うと、

漁師は、自分と自分の家族が食べるにはこれで十分だと言った。

「それじゃあ、あまった時間でいったい何をするの」

と旅行者が聞くと、漁師は、

「日が高くなるまでゆっくり寝て、それから漁に出る。戻ってきたら子どもと遊んで、女房とシエスタして。 夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって…ああ、これでもう一日終わりだね」

すると旅行者はまじめな顔で漁師に向かってこう言った。

「ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得した人間として、きみにアドバイスしよう。いいかい、きみは毎日、もっと長い時間、漁をするべきだ。 それであまった魚は売る。お金が貯まったら大きな漁船を買う。そうすると漁獲高は上がり、儲けも増える。その儲けで漁船を2隻、3隻と増やしていくんだ。やがて大漁船団ができるまでね。そうしたら仲介人に魚を売るのはやめだ。自前の水産品加工工場を建てて、そこに魚を入れる。その頃にはきみはこのちっぽけな村を出てメキシコシティに引っ越し、ロサンゼルス、ニューヨークへと進出していくだろう。きみはマンハッタンのオフィスビルから企業の指揮をとるんだ」

漁師は尋ねた。

「そうなるまでにどれくらいかかるのかね」

「15年、いやおそらく20年でそこまでいくね」

「それからどうなるの」

「それから?そのときは本当にすごいことになるよ」

と旅行者はにんまりと笑い、

「今度は株を売却して、きみは億万長者になるのさ」

「それで?」

「そうしたら引退して、海岸近くの小さな村に住んで、日が高くなるまでゆっくり寝て、 日中は釣りをしたり、子どもと遊んだり、奥さんとシエスタして過ごして、夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって過ごすんだ」
我々はこの話からどんな教訓を学ぶべきなのでしょうか?

一般的にはこの寓話はMBAの提案を揶揄するものとして扱われますが、私はそうは思いません。結果的に同じ生活を手に入れたかに見えますが、漁師は相変わらず生活のために日々漁に出て日銭を稼ぐことを義務付けられており、MBAは生活の心配をする必要がありません。MBAにとって漁はある意味、趣味です。この差は限りなく大きい。人生の大半の時間をビジネスの成功に投入しただけの価値はやはりあるのだと言わざるを得ないでしょう。しかし、個人の幸福感がその努力に比例しているかどうかと問われると、必ずしもイエスとは言えませんよね。ここに大きな選択肢があります。

幾多のリスクを乗り越え、必死に長期間の努力を積み上げた結果の対価である漁師生活。片や、最初から努力を放棄して目の前の安楽な幸せを選んだ結果としての漁師生活。MBAは一生分のストレスを投入して成功を勝ち得ているのであり、リタイヤ生活を手に入れた時には身も心もボロボロかも知れない。世の中が敷いたレールに背を向けて、ホームレス的なお気楽人生を選んだとしてもそれは誰かに非難される謂われのものではないはずなのです。どちらがエラいかではない。これは個人の主観の問題なのですね。

それでも私はMBAの道を選びますし、できれば子ども達にもこちらを選んで欲しい。どうしてか。それは人生がレッスンの場であると信じるからです。人がこの世に生まれてきた理由。それが自分を高め、よりよい人間として高みを目指す旅路にあると考えるからです。ただ生まれて、食べて、死ぬ。それだけではつまらないと、私は思います。この世に自分の足あとを残したい。何か意味のあるものを伝えたい。自分にしかできないことを成し遂げたい。それが私の人生観です。勿論、正解はありません。ただ、面白かったなと振り返れる人生を送りたいと思うだけです。

身近に人の死が訪れると、こういうことを考えてしまいますね。ではみなさま、よい連休を。