「正論原理主義」という世相

村上春樹さんが雑誌インタビューで下記の様に語り、文中で「正論原理主義」という表現を使っています。

 ネット上では、僕が英語で行ったスピーチを、いろんな人が自分なりの日本語に訳してくれたようです。翻訳という作業を通じて、みんな僕の伝えたかったことを引き取って考えてくれたのは、嬉しいことでした。

 一方で、ネット空間にはびこる正論原理主義を怖いと思うのは、ひとつには僕が1960年代の学生運動を知っているからです。おおまかに言えば、純粋な理屈を強い言葉で言い立て、大上段に論理を振りかざす人間が技術的に勝ち残り、自分の言葉で誠実に語ろうとする人々が、日和見主義と糾弾されて排除されていった。その結果学生運動はどんどん痩せ細って教条的になり、それが連合赤軍事件に行き着いてしまったのです。そういうのを二度と繰り返してはならない。

 ベトナム反戦運動や学生運動は、もともと強い理想主義から発したものでした。それが世界的な規模で広まり、盛り上がった。それはほんの短い間だけど、世界を大きく変えてしまいそうに見えました。でも僕らの世代の大多数は、運動に挫折したとたんわりにあっさり理想を捨て、生き方を転換して企業戦士として働き、日本経済の発展に力強く貢献した。そしてその結果、バブルをつくって弾けさせ、喪われた十年をもたらしました。そういう意味では日本の戦後史に対して、我々はいわば集合的な責任を負っているとも言える。


ネットでは様々な議論を呼んでいる表現なのですが、(興味がある方はググってみて下さいね)

伝えようとしている事は良く分かる気がします。



ネットが普及する前、我々一般人には情報発信手段がありませんでした。

テレビ・新聞・雑誌というマスメディアは一部の特別な企業の手中にあって、一般個人は身近な人との雑談やそれこそ紙の純然たるパーソナルな日記にこっそりと考えを書き留めておく他は無かったのです。

(新聞やラジオへの投書というのは限られた意見発信の形でしたかね)

その影響力は微々たるモノで、ほんのわずかな周囲にそれこそ声の大きさ分だけ伝わって、そのまますぐに消えて無くなる代物でした。



ところが、今や個人が書き記した発言があっという間に地球の裏側まで伝わり、しかも消えずに残ってしまう時代になってしまいました。

大部分が大した意図を持たずに発信された意見なのに、誰の目にも触れる形で永遠に残ってしまうがために時に批判を浴びてしまう事が増えてしまいます。

今や猛烈な揚げ足取りや突っ込みの嵐。

迂闊なことは書いて残して置けません。



世の中、白と黒の間に無数のグレーがあり、関与する人によって、また時と場合によって、正解にも不正解にもなり得る複雑で曖昧なものなのだと思いますが、許容度の狭い社会は妙にギスギスしてとても息苦しいものだと思います。

ネットというメディアが登場して、まだ人々が適切な距離感や付き合い方を獲得していないが為の一時的な現象だとは思いますが、違う立場や考え方を受け入れる度量が欲しいですね。