鄧小平

鄧小平(Wikipedia)



日中関係が緊迫している中で、中国首脳部の人柄や背景などを理解したいなと思い、まずは今の中国の骨格を作った鄧小平からでしょう、という事でWikipediaを見てみました。
1904年、四川省広安県の裕福な客家系地主の家庭に生まれる。

1920年、16歳のときにフランスに留学する。

ちなみに鄧小平は16歳で故郷を出た後、死ぬまで一度も帰郷することはなかった。

鄧が留学した時代、フランスは第一次世界大戦直後の不景気だったため、パリから遠く離れた市立中等校に入学して節約に励むが、生活費を稼ぐため半年で学校を辞めてしまう。鉄鋼工場員、レストランのボーイ、清掃夫など、職を転々と変えながらも堅実に貯金して、1922年10月に再び田舎町の市立中等学校に入学して3か月間学んだのち、パリ近郊のルノーの自動車工場で仕上げ工員として勤務する。

フランス留学中の1922年に中国少年共産党に入党し、機関誌の作成を担当。「ガリ版博士」とあだ名される。1925年、中国共産党ヨーロッパ支部の指導者となり、フランス政府に危険分子と見なされ、フランスでの居心地が悪くなり、1926年、モスクワに渡り、東方勤労者共産大学・モスクワ中山大学で共産主義を学ぶ。鄧小平がパリを出発した数時間後、フランスの警察が鄧小平のアパートを捜査に入り、10日後に国外追放令を出されていた。
この辺りの幼少期の家庭事情とか、人格形成に大きな影響を与えたであろう青年期の過ごし方に興味を引かれますね。早くにフランスに留学した経験を持ち、それも貧乏しながらの苦学生で、いわゆるエリートではない経験を沢山積んでいます。
1927年に帰国し、ゲリラ活動を開始。

しかしコミンテルンの指令に忠実なソ連留学組が多数派を占める党指導部は、農村でのゲリラ戦を重視する毛沢東路線に従う鄧小平を失脚させる。
これが鄧小平27歳の時の第一回目の失脚です。
1935年、周恩来の助力で中央秘書長に復帰

1955年4月、第7期党中央委員会第5回全体会議(第7期5中全会)において中央政治局委員に選出。さらに1956年の第8期1中全会で党中央政治局常務委員に選出

1957年には総書記として反右派闘争の指揮を取る。

部分的に農家に自主的な生産を認めるなどの調整政策がとられ、一定の成果を挙げていったが、毛沢東はこれを「革命の否定」と捉えた。

結果、文化大革命の勃発以降は「劉少奇に次ぐ党内第二の走資派」と批判されて権力を失うことになる。

1968年には全役職を追われ、さらに翌年、江西省南昌に追放された。
これが文革期です。この頃から既に改革派としての素地が見えますね。当然毛沢東と合うわけもなく、64歳にして二度目の失脚。
「走資派のトップ」とされた劉少奇は文化大革命で非業の死を遂げるが、鄧小平は「あれはまだ使える」という毛沢東の意向で完全な抹殺にまでは至らず、党籍だけは剥奪されなかった。

1973年3月、周恩来の復活工作が功を奏し、鄧小平は党の活動と国務院副総理の職務に復活、病身の周恩来を補佐して経済の立て直しに着手する。

着々と失脚以前の地位を取り戻して行ったかに見えたが、1976年1月8日に周恩来が没すると、鄧小平の運命は暗転する。清明節の4月4日から5日未明にかけて、江青ら四人組が率いる武装警察や民兵が、天安門広場で行われていた周恩来追悼デモを弾圧した。すなわち第一次天安門事件である。この事件において周恩来追悼デモは反革命動乱とされ、鄧小平はこのデモの首謀者とされて再び失脚、全ての職務を剥奪された。
これが鄧小平72歳の三度目の失脚経験です。前の二回の失脚から救ってくれた周恩来が死去すると権力の座を追われます。ここまで政権中枢でアップダウンを経験する人はないのでは?
1976年9月に毛沢東が死去すると、後継者の華国鋒を支持して職務復帰を希望し、四人組の逮捕後、1977年に三度目の復活を果たす。

1978年10月、日中平和友好条約の批准書交換のため、中国首脳として初めて訪日し、昭和天皇や日本政府首脳と会談したほか、千葉県君津市の新日鉄君津製鉄所、東海道新幹線やトヨタ自動車などの先進技術、施設の視察に精力的に行い、京都や奈良にも訪れた。この訪日で鄧小平が目の当たりにした日本の躍進振りは、後の改革開放政策の動機になったとされる。

同年11月10日から12月15日にかけて開かれた党中央工作会議と、その直後の12月18日から22日にかけて開催された第11期3中全会において文化大革命が否定されるとともに、「社会主義近代化建設への移行」すなわち改革開放路線が決定され、歴史的な政策転換が図られた。

1979年1月1日に米中国交が正式に樹立されると、鄧小平は同28日から2月5日にかけて訪米。首都ワシントンDCで大統領ジミー・カーターとの会談に臨んだ後、ヒューストン、シアトル、アトランタなどの工業地帯を訪れ、ロケットや航空機、自動車、通信技術産業を視察。前年の日本訪問とこの訪米で立ち遅れた中国という現実を直視した鄧は改革解放の強力な推進を決意、同年7月、党中央は深圳市など4つの経済特別区の設置を決定する。
これが現在に続く改革開放路線への転換です。1972年に果たした日中国交正常化が与えた影響は大きかったですね。日本・アメリカの状況を視察して、素直に資本主義経済導入の必要性を認めたのは賢明な判断でした。しかし、鄧小平は中国を治めるに当たって、経済的には資本主義を取り入れるものの、政治的には共産党の一党独裁体制を堅持しました。
「自由化して党の指導が否定されたら建設などできない」「少なくともあと20年は反自由化をやらねばならない」と釘を刺している。

しかし、鄧は政治改革に全く反対だというわけではなかった。第一次国共内戦期から党に在籍し、「革命第一世代」と呼ばれた老幹部たちを、自身も含めて党中央顧問委員会へ移して政策決定の第一線から離すなどの措置をとった。
あれだけの大国をドライブするための装置としての共産党体制を、必要悪と認識しながらチョイスしたのですね。この辺りの判断が老獪であり、バランスの取れた大人の決断でした。
・唯物主義にのっとった遺言により、角膜などを移植に寄付した。本人は自身の遺体の献体を望んだが、これは鄧楠の希望で実施されなかった。

・フランス留学の経験もあり、ワインとチーズが大好物でヨーロッパ文化への嫌悪感を持たなかった鄧小平は、いくつかの趣味を持っていた。とくに有名なのはコントラクトブリッジであった。

・フランス留学中に夢中になったものが2つあり、1つは共産党でもう1つはクロワッサンであった。これは無関係というわけではなく、フランスで1番おいしいクロワッサンの店を教えてくれたのは、後に北ベトナムの指導者になるホー・チ・ミンであった。

・サッカー好きでも知られていた。FIFAワールドカップの時には、ビデオなどを使ってほとんどの試合を見ていたといわれている。

・実子である鄧樸方は、北京大学在学中に文化大革命に巻き込まれ、紅衛兵に取り調べられている最中に窓から「転落」(紅衛兵により突き落とされたとする説もある。事実、紅衛兵によるこういった、あるいはその他の激しい暴行による傷害や殺人は夥しい数に上り、鄧小平自身も暴行を受けている)し、脊髄を損傷し身体障害者になった。鄧小平は午前は工場労働をし、午後は息子の介護をした。

・訪日時の昭和天皇との会見で「あなたの国に迷惑をかけて申し訳ない」という謝罪の言を聞いたとき、鄧小平は電気ショックを受けたように立ちつくした。大使館に帰ると「今日はすごい経験をした」と興奮気味に話したという。また歴史認識でも江沢民のような強硬な謝罪を要求せず「日中二千年の歴史に比べれば両国間の不幸な時期など瞼の一瞬き(ひとまばたき)にすぎない」と日本の首脳に述べたと言う。
これらのエピソードが現すのは、合理的で、欧米のカルチャーを理解し、暴力の持つ悲しい側面を知った、懐の深い一大政治家という人物像です。対日観も決してエキセントリックなものではなく、尊重する姿勢を持ったものであったと言えるでしょう。そして、私が最も印象に残ったのは次の言葉です。
日本国外務省の田島高志(元中国課長、カナダ大使)は、1978年8月の日中平和友好条約交渉において、鄧小平がソ連を覇権主義と批判し、中国の反覇権を条約に明記するように主張していたと語る。その際に鄧小平が園田直外相に対し、「中国は、将来巨大になっても第三世界に属し、覇権は求めない。もし中国が覇権を求めるなら、世界の人民は中国人民とともに中国に反対すべきであるとし、近代化を実現したときには、社会主義を維持するか否かの問題が確実に出てこよう。他国を侵略、圧迫、搾取などすれば、中国は変質であり、社会主義ではなく打倒すべきだ」と述べたという。
本当に鄧小平が覇権主義への批判精神を持っていたとするなら、その精神が正しく現在の首脳部に引き継がれていることを期待します。争いから生まれる建設的な結果などないのですから。



続いて、胡錦濤と次期指導者とされる習近平のプロフィールを追うところなのですが、長くなったのでまた。



しかし、凄い人生です。こんな経験を積んだ政治家に、現代の二世世代が太刀打ち出来ないのは当然ですね。それは、日本でも中国でも同じなのでしょう。

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長谷川K太郎 日時 :

長谷川慶太郎は1978年の日中平和友好条約締結後に日中間で起きた様々な問題の根因は「日本が中国に日中戦争の賠償金を払っていないからだ」と指摘しました。

もし、日本が中国に賠償金を支払っていたら尖閣諸島の問題は起きていなかったかもしれません。



また、長谷川慶太郎は「中国は日本の影響を強く受ける国だ」と指摘しました。

例えば、中国の文化大革命の原因は日本でした。1958年に長崎で右翼が中共国旗を毀損する長崎国旗事件が起こりました。これに対して親台湾派の岸信介首相は外国国章損壊罪ではなく軽犯罪という軽い刑事処分で済ませました。

中国はこの事件で日本からの経済協力を断念しました。そして自力による経済発展を目指して、大躍進の失敗で政権中枢から失脚した毛沢東が復権を目指す文化大革命が起きてしまいました。

野田佳彦首相は「尖閣国有化による中国の反発は想定を超えていた」と述べましたが、「中国は日本の影響を強く受ける国だ」という認識が日本人の間で欠けていることが根因だと思います。



以上の2つの認識が日本人の間で定着すれば、日本に対する中国の不可解な行動の理由が理解しやすくなるような気が私はします。

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