主語の大きさ

我々はともすると、「日本は」「若者は」なんて言葉で対象を一括にして語ってしまいます。しかし最近、それは危険な発想ではないのかなと思うようになりました。あまりに主語が大きすぎて議論が粗雑になっているのではないだろうかと。

確かに一定の傾向はあります。日本とアメリカや中国は違う国で、歴史も文化も気質も異なります。さまざまな現象をスッパリ切って落とす明快な理論を目の当たりにすると、論じ手の明晰な頭脳に感動してカタルシスを感じたりします。だから自分もあやかりたいと、古来床屋談義や居酒屋のオッサン語りが繰り返されてきたのでしょうね。

いろんな物事を変えてしまったのは、ネットの登場です。もはや世の中はネット以前と以後で全く違う理屈で動いています。人は自分の目で見、耳で聞いて、口で話す言葉と共に生きていますが、いまやその情報の入手先は圧倒的にネットになってしまいました。半径3mの周囲が自分に与えるインパクトは年々小さくなる一方なのです。

集団への同調圧力が薄れ、個人の価値観が多様化していく中で、観測できる人の集団規模は小さくなっていくのです。サービス設計も、数を追うより、小集団のコアに刺さるかどうかが成果を左右します。自分が語るストーリーの主語が大きくなりすぎていないか、振り返ってみる姿勢が大切な気がします。