短所と長所

50を超えても迷うことばかりで、老成とはほど遠い心境です。耳の痛い苦言を頂くこともあります。有り難いことです。

誤解を招く表現かもしれませんが、私はあまり短所を改善しようとしすぎない方がいいと考えています。これは忠告を聴き入れないとか反省しないとかいう意味ではありません。客観的に自分を振り返る謙虚さは必要です。しかしそれを分かった上で、あまり短所にフォーカスしない方がいいと思います。そのココロは?

それは、短所は往々にして長所の裏返しだからです。例えば私の場合、無神経で鈍感なところがあると自覚しています。それはそれで改善する努力はしているつもりですが、それでもその欠点は私の長所にリンクしている部分があるのです。恐らく私は、他の人よりメンタル的にタフで逆境を打開する突破力があるんじゃないかと思っています。これは私に限らず、全ての人に言えることなんじゃないでしょうか。短所の表現、視点を変えると、その人の長所に繋がる。だからこそ、短所を矯正しようと意識を集中させるとことが、長所も殺すことになりかねないと懸念します。ではどうするのか?

繰り返し頂いたアドバイスに、欠点を直そうとせずに引き出しを増やす努力をしなさい、というものがあります。あるシチュエーションに上手く対応できない。反射的に怒りが爆発したり、逃げたりする。そのリアクションの基になっている性格や考え方を直すのではなく、違う対応をするバリエーションを増やす努力をしなさい、と。この考え方の方がなんだかホッとしませんか。自分を否定するのではなく、認めた上で、新しいスキルを獲得する。はるかに前向きで建設的な対応だと思います。

幾つになっても学ぶことばかりで、自分が成長しているのか停滞しているのかすらよく分かりません。ひょっとしたら同じレベルでウロウロしているだけなのかもしれませんが、それでも足を止めてはダメなんです。止まらずに前に進む。それが新しい場所に行く唯一の方法なのですから。

リモートワークの是非

皆さんの職場ではリモートワークのスタッフさんはいらっしゃいますか? 働き方改革が注目されている昨今、仕事との関わり方の多様化は大事なテーマです。ウチは基本的にはフルタイムの正社員が主体なのですが、さまざまな事情から兼業・複業・パートタイム・リモートワークのスタッフがいます。この状態をどう見るかは人それぞれで、多様性の実現と歓迎する人もいれば、少々苦々しく思っている人もいます。ネガティブに考える人の言い分は、コミュニケーションの確保に不安があるということと、そもそもオフィスに出勤するのと同等の時間と内容で業務時間をコミットできるのかという点にあります。

これは懸念するポイントとしては確かにもっともで、実際にある子育て中の女性スタッフは、自宅で仕事をするよりオフィスに出勤する方がやりやすいと言っていました。生まれたての赤ちゃんを抱えて仕事をするというのは特殊な事情なので、リモートワークで話が解決するわけでもなく、保育所へ子供を預けることも必要でしょうし急な病気で休むことや家事の分担など会社にも家庭にもそれなりの配慮が必要になります。そういう意味では、一定のネガティブ要素がないとは言えない。それでもリモートワークを導入する理由は、やはり質の高い人材の確保という大命題があるからです。これだけ人の確保が難しくなると経験を積んだ高スキルな人材を容易に手放したくないし、新規の採用場面においてもそういう配慮がある会社かどうかが入社のモチベーションに大きく影響します。ある意味必要に迫られての対応かもしれませんが、時代環境が多様性の実現を後押ししているのですね。

コミュニケーションの確保という面では、最近新しい発見がありました。それは、リモートでのオンラインコミュニケーションが必ずしも対面のリアルコミュニケーションに劣るとは限らない、ということです。私は頭の中に対面のコミュニケーションがベストで、オンラインコミュニケーションはセカンドベスト、質的には落ちるという考えがあったのですが、そうでもないと指摘されました。新鮮な驚きでしたね。これにはその人と周囲のスキルと理解も必要です。誰でも同じようにいくわけではありませんが、信頼関係のベースとオンラインコミュニケーションのツボを心得た人同士であれば、場合によっては同じオフィスで空間を共有している以上の意思疎通が実現できもする。なるほど。

気を付けなければいけないのは、意識してコミュニケーションを取る姿勢そのものを持つこと。なんとなくその場にいれば受動的にでもシェアできる暗黙知は、オンラインでは伝わりません。発信する意識のない人からは何も生まれませんから、まずは必要な相手先に必要な情報を伝える問題意識があることが大前提です。実はここのスキルを持ち合わせない人が結構多い。遠慮だったり、慎み深さという個人のパーソナリティの現れかもしれませんが、チームに対して必要な情報をシェアするというはっきりとした意図をちゃんと持ってくれないと、オンラインコミュニケーションの世界では埋没して存在が消えてしまいます。だからきちんと発信できる人でないとリモートワークは機能しないですね。

加えて、文字で誤解のないように必要充分なコミュニケーションを取るスキル、これが要求されます。これがなかなか難しい。どうしても情報不足だったり、表現がまずかったりして、こちらの意図が正しく伝わらないことが多い。これはみなさんも経験されていることでしょう。私もこうやってBLOGやSNSに日々色んなことをポストしてますけど、分かりやすい良い文章を書くことの難しさを感じています。今回の内容も冗長ですかね?w

しかし多かれ少なかれ、これからは全ての企業においてリモートワークは増えていくし、上手に対応出来ない会社やチームは質の確保が難しくなるでしょう。契約社員・パートタイムスタッフ・業務委託先・社外コンサル、などなど多様な関わり先と多様な働き方を模索する。経験を積んでおいた方がいい大事なテーマだと思います。

ホーキング博士の逝去

Stephen Hawkingが76歳で逝去

車椅子の天才物理学者として有名なスティーヴン・ホーキング博士が76歳で亡くなったそうです。ご冥福をお祈りいたします。

博士がALSを発症したのは21歳の頃と伝えられていますから、博士は生涯に渡って難病と格闘し続けたと言えますね。想像してみます。もし自分が二十歳の頃にALSと診断されたらどんな人生を歩んでいただろうか、と。こんなに前向きに人生と向き合えた自信はありません。私も含めて多くの人は、自分に足りないものを嘆くことはしますが、自分が沢山のものに恵まれていることに感謝することはありません。パラリンピックを見ていても感じることですが、ハンディキャップを抱えながら強く生きている人がどれだけ眩しいか、周囲の人を勇気付けているか。

目の前の状況をどう捉えるかは、当人次第なのですね。よく言われる例え話があります。コップに半分水が入っているのをどう考えるか。「もう半分しか残っていない」と悲観するひと。「まだ半分も残っている」と楽観的に考えるひと。その違いは大きい。私は、楽観的に考え、生きたい。ホーキング博士を見習って、周囲の人を勇気付ける存在でありたいと願っています。博士を失ったことを悲しむよりも、博士を知り得たことを喜びと考えたいと思います。どうぞ安らかにお眠りください。

規制の弊害

新サービスの準備のために、金融系の会社に相談を持ちかけています。これがなかなか話が進まないんですよね…。正直困っていますが、何とか突破したいとあれこれ考えて工夫しています。

規制はそもそも消費者保護が目的で作られるもの。その意義そのものには私も依存ありません。例えば、いま騒ぎになっているコインチェック騒動。お金を預かる金融機関の管理体制があんなにザルでは、消費者は安心してサービスを利用できません。法律の縛りと監督官庁のチェックは必要なことだと思います。同じことは、色んな業界に存在します。医療・製薬・食品・法曹・税務会計・製造業、ある意味全ての業界は何らかの規制を受けていると言えますね。

問題は、環境が変化してその規制が古くなった時です。明らかなビジネスチャンスが生まれているのに、規制が縛りとなってそのチャンスを活かせない。これは結局のところ、サービスの受け手である国民の損失です。インターネットなんてものが影も形もなかった頃に作られた法律が、様々な企業活動の妨げになっているのは自明ですよね。

では何でも規制緩和すればいいのかと言えば、そうでもないのが難しいところ。そもそも規制が生まれた原点である消費者保護という役割は、新しい環境下でも必要なことであることに変わりはありません。ここに起業家が必要とされる理由があります。新しい技術の登場を背景に、既存の法律や規制のすき間を探して新しいサービスを提供する。その状況をみて、規制が現状追認の形で改正される。

ここで皆さんにお考え頂きたいのは、この流れを実現するためには、起業家がどこかで既存の規制をかいくぐる提案をすることが必要だということです。いわゆる、グレーなサービスの開発です。しかしこれはなかなかリスキーな面があり、起業家が法令違反を問われることになるとそのリスクを負う者がいなくなってしまいます。世のベンチャーはどうやって規制を突破しているのでしょうか。

実はこの問題の背景には、各国の法令が寄って立つ法的概念の違いがあります。いつもいつもベンチャーがアメリカから起こるのには、理由があるのです。それは、日本が成文法の国であり、アメリカが判例法の国であることに起因するところがあるいうことです。

成文法
判例法(コモン・ロー)

おおまかな分類ですが、日本・ドイツ・フランスは成文法の国、アメリカ・イギリスは判例法の国、と言えるということです。これ、何となく直感的に納得いきませんか。

日本では、あるベンチャービジネスを考えた時、これが既存の法律でどう解釈されるか考えます。普通は何らかの既存の法律で規制されていると判断されるため、法的なリスクを負うことを避ける圧力が強く働きます。対してアメリカでは、グレーゾーンのサービスをまずやってみて、後からその新サービスに対する法的な解釈を待つことができる。これがUberやAirbnbなどのシェアリングサービスがアメリカで広まって日本で規制される大きな理由です。勿論、アメリカのベンチャーエコシステムが健全に機能していて、起業家とベンチャーキャピタルがどんどん新しいサービスを生み出す母体になっているのも事実です。しかし、日本で同じようなアイデアやチャレンジが全くないわけではないのです。多くの起業家は新規サービスのアイデアを持ちながらも、その法的なリスクの前に泣く泣く諦めているケースが多いんじゃないかと思います。

こうなると話の根っこは深くて深刻です。日本の法体系がすぐに大きく変わることは期待できないでしょうから、当面は英米の後追いに甘んじるしかないということになります。事実として多くの日本のベンチャーはアメリカでの先行事例を日本に遅れて導入するタイムマシン経営で大きくなってきたという実態もありますから、日本語という特殊なカベに守られて楽をしている面も否めません。ただ、これだけ情報が世界に瞬時に波及するネット社会では、与えられる時差は短くなるばかり。それに永遠に他国の後追いを続けるというのも愉快なことではありません。

本当にチャレンジングなサービスは、日本に拠点を置く日本企業でも、日本を飛び越えて最初からワールドマーケット向けに展開することを想定する。そんな時代になっていくのかもしれませんね。息子達の目には私の常識は古いものに映るのでしょう。私は次世代によい環境を引き継ぐべく、新時代の尖兵でありたいと思っています。

社内コミュニケーションの活性化のために

実は前から気になっているのですが、ウチの社内は議論が活発であるとは言えません。本当はみんなに会社の色々なテーマについて話して欲しいし、一緒に考えたいのですが、私が思うようには活性化していません。それは何故なのか、どうしていけばいいのか。あれこれ考えています。

一番思いあたる原因は、私のキャラクターに問題がある、ということです。つい先日ですがあるスタッフにこう言われました。「岡野さんには話を聞いてもらえない空気がある」。まあそうだろうなと思いながらも、改めて指摘されると事の深刻さに思い至ります。私にも言い分はあります。「だって最後に責任を持って決めるのは私なんだから、独断になるのはしょうがないじゃん」。しかしこれではいつまでたってもスタッフは私に意見を言えないままなんでしょうね。トップに何か言って、キレられたらたまったものじゃない。普通はそう考えますものね。であれば、現状は自分が招いたものと考えるべきなのでしょう。では、どうすればいいのか?

1.いちいちキレないように人格の修養を積む
2.話を聞く姿勢を伝える
3.匿名で意見を表明する仕組みを用意する
4.意見を聞く場を設ける
5.コミュニケーション活性化のためのツールを導入する

率直に意見を表明する風土を作らずにツールだけ導入してなんとかしようとか思うから効果が出ないんでしょうね。優先度1.なんて曖昧で具体的じゃないですけど、これを本気でやらない限り何をやってもダメな気がします。取りあえず、3.の匿名で意見を言ってもらう目安箱でも用意してみますか。

と思ってたら、こんなものを見つけました。さすが、なんでもありますね!

匿名メッセージアプリ Sarahah(サラハ)を使った感想

Sarahah
Sarahahは2016年にサウジアラビアのZain al-Abidin Tawfiqによって開発された。元々は従業員が上司にフィードバックを与えるためのウェブサイトとしてスタートしている。
なるほど! 私の用途にピッタリじゃないですか。ショッキングな結果になることも想定しつつ、こういうところから始めてみることにします。結果をお楽しみに!

学びの機会

私は元々短気な性格なので、日常的にちょいちょい腹が立つことがあります。腹が立つ原因は様々なのですが、何故腹が立つのかよくよく考えてみると、それは今までの自分と異なる考え方や価値観と出会ったからなのかもしれません。「コイツ、非常識な!」と感じるその常識とはなにか。自分の中の物差しに過ぎませんよね。ひょっとして非常識なのは自分の方なのかもしれない。そう考えると、感情的に反射することの危険さが分かります。前向きに考えるなら、腹が立つ瞬間というのは、実は学びの機会なのかもしれない。新しい考え方に出会って、自分がバージョンアップされる貴重な機会なのだとしたら、それを怒りで失ってしまうのは凄く勿体ないことなのですね。

時々自分の歳のことを考えます。もう51歳。若くはありません。自分が二十代の頃、五十代の人は明らかにオッサンでした。下手したら年寄りと思っていたかもしれません。その歳に自分がなったということを自覚して、新しいことや若い人に学ぶ機会を与えられているのは有り難いことなのだと思えれば、それはまだ若さを失っていないと言えるのではないでしょうか。人は学ぶ気持ちを失った時に、本当に老いるのだと思います。なかなか感情を抑えることは難しいのですが、自省を込めて学ぶ機会に感謝の気持ちを持てるよう努力したいと思います。