英会話レッスン、スタート

先日お書きした英会話レッスン、始めてみました。例の「ネイティブ先生.com」で見つけた先生と体験レッスンをしまして、日本人の先生とネイティブの先生の二人と、それぞれ週に一度レッスンの日程を組みました。いきなりネイティブの先生とだけレッスンを組むと、やはり会話が続かなくて苦しいんですよ。で、日本人の先生とだとどうしても日本語に頼ってしまう部分があって、甘えてしまう。両方でスタートして、こちらの習熟度次第でネイティブ先生中心に切り替えていくのが良いかな、なんて思ってます。



今週前半に香港に出張に行ったんですが、先方が広東語なので、日本語−広東語の通訳さんを雇いました。ただ、ミーティングが始まってしまうと、どうしても通訳さんがWeb業界に詳しくないので伝えきれない部分が出てきてしまいます。焦れったくなって、カタコトの英語で私が直接先方とやり取りを始めたんですが、やっぱりこの方がコミュニケーション出来たりするんですよね。語学力よりも、伝えるべきコンテンツを持っているかどうかが大事なんですね。まあこんなシーンがしょっちゅうあるわけでもないんですけど、人間幾つになっても勉強する姿勢は持たないとダメだな、なんて感じてる部分もあり、今回の英会話トライに結びつきました。継続して、地力を上げたいと思います。

鄧小平

鄧小平(Wikipedia)



日中関係が緊迫している中で、中国首脳部の人柄や背景などを理解したいなと思い、まずは今の中国の骨格を作った鄧小平からでしょう、という事でWikipediaを見てみました。
1904年、四川省広安県の裕福な客家系地主の家庭に生まれる。

1920年、16歳のときにフランスに留学する。

ちなみに鄧小平は16歳で故郷を出た後、死ぬまで一度も帰郷することはなかった。

鄧が留学した時代、フランスは第一次世界大戦直後の不景気だったため、パリから遠く離れた市立中等校に入学して節約に励むが、生活費を稼ぐため半年で学校を辞めてしまう。鉄鋼工場員、レストランのボーイ、清掃夫など、職を転々と変えながらも堅実に貯金して、1922年10月に再び田舎町の市立中等学校に入学して3か月間学んだのち、パリ近郊のルノーの自動車工場で仕上げ工員として勤務する。

フランス留学中の1922年に中国少年共産党に入党し、機関誌の作成を担当。「ガリ版博士」とあだ名される。1925年、中国共産党ヨーロッパ支部の指導者となり、フランス政府に危険分子と見なされ、フランスでの居心地が悪くなり、1926年、モスクワに渡り、東方勤労者共産大学・モスクワ中山大学で共産主義を学ぶ。鄧小平がパリを出発した数時間後、フランスの警察が鄧小平のアパートを捜査に入り、10日後に国外追放令を出されていた。
この辺りの幼少期の家庭事情とか、人格形成に大きな影響を与えたであろう青年期の過ごし方に興味を引かれますね。早くにフランスに留学した経験を持ち、それも貧乏しながらの苦学生で、いわゆるエリートではない経験を沢山積んでいます。
1927年に帰国し、ゲリラ活動を開始。

しかしコミンテルンの指令に忠実なソ連留学組が多数派を占める党指導部は、農村でのゲリラ戦を重視する毛沢東路線に従う鄧小平を失脚させる。
これが鄧小平27歳の時の第一回目の失脚です。
1935年、周恩来の助力で中央秘書長に復帰

1955年4月、第7期党中央委員会第5回全体会議(第7期5中全会)において中央政治局委員に選出。さらに1956年の第8期1中全会で党中央政治局常務委員に選出

1957年には総書記として反右派闘争の指揮を取る。

部分的に農家に自主的な生産を認めるなどの調整政策がとられ、一定の成果を挙げていったが、毛沢東はこれを「革命の否定」と捉えた。

結果、文化大革命の勃発以降は「劉少奇に次ぐ党内第二の走資派」と批判されて権力を失うことになる。

1968年には全役職を追われ、さらに翌年、江西省南昌に追放された。
これが文革期です。この頃から既に改革派としての素地が見えますね。当然毛沢東と合うわけもなく、64歳にして二度目の失脚。
「走資派のトップ」とされた劉少奇は文化大革命で非業の死を遂げるが、鄧小平は「あれはまだ使える」という毛沢東の意向で完全な抹殺にまでは至らず、党籍だけは剥奪されなかった。

1973年3月、周恩来の復活工作が功を奏し、鄧小平は党の活動と国務院副総理の職務に復活、病身の周恩来を補佐して経済の立て直しに着手する。

着々と失脚以前の地位を取り戻して行ったかに見えたが、1976年1月8日に周恩来が没すると、鄧小平の運命は暗転する。清明節の4月4日から5日未明にかけて、江青ら四人組が率いる武装警察や民兵が、天安門広場で行われていた周恩来追悼デモを弾圧した。すなわち第一次天安門事件である。この事件において周恩来追悼デモは反革命動乱とされ、鄧小平はこのデモの首謀者とされて再び失脚、全ての職務を剥奪された。
これが鄧小平72歳の三度目の失脚経験です。前の二回の失脚から救ってくれた周恩来が死去すると権力の座を追われます。ここまで政権中枢でアップダウンを経験する人はないのでは?
1976年9月に毛沢東が死去すると、後継者の華国鋒を支持して職務復帰を希望し、四人組の逮捕後、1977年に三度目の復活を果たす。

1978年10月、日中平和友好条約の批准書交換のため、中国首脳として初めて訪日し、昭和天皇や日本政府首脳と会談したほか、千葉県君津市の新日鉄君津製鉄所、東海道新幹線やトヨタ自動車などの先進技術、施設の視察に精力的に行い、京都や奈良にも訪れた。この訪日で鄧小平が目の当たりにした日本の躍進振りは、後の改革開放政策の動機になったとされる。

同年11月10日から12月15日にかけて開かれた党中央工作会議と、その直後の12月18日から22日にかけて開催された第11期3中全会において文化大革命が否定されるとともに、「社会主義近代化建設への移行」すなわち改革開放路線が決定され、歴史的な政策転換が図られた。

1979年1月1日に米中国交が正式に樹立されると、鄧小平は同28日から2月5日にかけて訪米。首都ワシントンDCで大統領ジミー・カーターとの会談に臨んだ後、ヒューストン、シアトル、アトランタなどの工業地帯を訪れ、ロケットや航空機、自動車、通信技術産業を視察。前年の日本訪問とこの訪米で立ち遅れた中国という現実を直視した鄧は改革解放の強力な推進を決意、同年7月、党中央は深圳市など4つの経済特別区の設置を決定する。
これが現在に続く改革開放路線への転換です。1972年に果たした日中国交正常化が与えた影響は大きかったですね。日本・アメリカの状況を視察して、素直に資本主義経済導入の必要性を認めたのは賢明な判断でした。しかし、鄧小平は中国を治めるに当たって、経済的には資本主義を取り入れるものの、政治的には共産党の一党独裁体制を堅持しました。
「自由化して党の指導が否定されたら建設などできない」「少なくともあと20年は反自由化をやらねばならない」と釘を刺している。

しかし、鄧は政治改革に全く反対だというわけではなかった。第一次国共内戦期から党に在籍し、「革命第一世代」と呼ばれた老幹部たちを、自身も含めて党中央顧問委員会へ移して政策決定の第一線から離すなどの措置をとった。
あれだけの大国をドライブするための装置としての共産党体制を、必要悪と認識しながらチョイスしたのですね。この辺りの判断が老獪であり、バランスの取れた大人の決断でした。
・唯物主義にのっとった遺言により、角膜などを移植に寄付した。本人は自身の遺体の献体を望んだが、これは鄧楠の希望で実施されなかった。

・フランス留学の経験もあり、ワインとチーズが大好物でヨーロッパ文化への嫌悪感を持たなかった鄧小平は、いくつかの趣味を持っていた。とくに有名なのはコントラクトブリッジであった。

・フランス留学中に夢中になったものが2つあり、1つは共産党でもう1つはクロワッサンであった。これは無関係というわけではなく、フランスで1番おいしいクロワッサンの店を教えてくれたのは、後に北ベトナムの指導者になるホー・チ・ミンであった。

・サッカー好きでも知られていた。FIFAワールドカップの時には、ビデオなどを使ってほとんどの試合を見ていたといわれている。

・実子である鄧樸方は、北京大学在学中に文化大革命に巻き込まれ、紅衛兵に取り調べられている最中に窓から「転落」(紅衛兵により突き落とされたとする説もある。事実、紅衛兵によるこういった、あるいはその他の激しい暴行による傷害や殺人は夥しい数に上り、鄧小平自身も暴行を受けている)し、脊髄を損傷し身体障害者になった。鄧小平は午前は工場労働をし、午後は息子の介護をした。

・訪日時の昭和天皇との会見で「あなたの国に迷惑をかけて申し訳ない」という謝罪の言を聞いたとき、鄧小平は電気ショックを受けたように立ちつくした。大使館に帰ると「今日はすごい経験をした」と興奮気味に話したという。また歴史認識でも江沢民のような強硬な謝罪を要求せず「日中二千年の歴史に比べれば両国間の不幸な時期など瞼の一瞬き(ひとまばたき)にすぎない」と日本の首脳に述べたと言う。
これらのエピソードが現すのは、合理的で、欧米のカルチャーを理解し、暴力の持つ悲しい側面を知った、懐の深い一大政治家という人物像です。対日観も決してエキセントリックなものではなく、尊重する姿勢を持ったものであったと言えるでしょう。そして、私が最も印象に残ったのは次の言葉です。
日本国外務省の田島高志(元中国課長、カナダ大使)は、1978年8月の日中平和友好条約交渉において、鄧小平がソ連を覇権主義と批判し、中国の反覇権を条約に明記するように主張していたと語る。その際に鄧小平が園田直外相に対し、「中国は、将来巨大になっても第三世界に属し、覇権は求めない。もし中国が覇権を求めるなら、世界の人民は中国人民とともに中国に反対すべきであるとし、近代化を実現したときには、社会主義を維持するか否かの問題が確実に出てこよう。他国を侵略、圧迫、搾取などすれば、中国は変質であり、社会主義ではなく打倒すべきだ」と述べたという。
本当に鄧小平が覇権主義への批判精神を持っていたとするなら、その精神が正しく現在の首脳部に引き継がれていることを期待します。争いから生まれる建設的な結果などないのですから。



続いて、胡錦濤と次期指導者とされる習近平のプロフィールを追うところなのですが、長くなったのでまた。



しかし、凄い人生です。こんな経験を積んだ政治家に、現代の二世世代が太刀打ち出来ないのは当然ですね。それは、日本でも中国でも同じなのでしょう。

英会話レッスン

ずっと何年もやらなきゃと思いながら手を付けれてなかった英会話レッスンにようやく着手。色んな方法を模索してみたんですが、、、



●英会話教室

 ウチのビルの上にGABAさんがあるので去年体験レッスンも受けてみたんです。でもね〜 やっぱり高いよ。一コマが40分で、単価は6,800円! 前払いで一括40万円以上も払うのは抵抗あります。ちゃんと続くか分からないしね〜 時間も40分は短いと思います。他にもベルリッツとかECCとかありますけど、大体の傾向は同じ。



●Skypeレッスン

 最近注目されているのはこれ。確かに安い! 有名どころではレアジョブさんとか、毎日50分話しても月額8,000円とかめちゃお値打ち! でもね〜 講師はフィリピン人とかが多くて、やっぱり訛ってて聞き取りづらいとか、Skypeの回線がブツブツ切れてイライラするとか聞きます。私は対面レッスンの方が良いかなと思って見送り。



●先生紹介サイト

 ・ネイティブ先生ドットコム

 私が今回利用したのはこのサイト。会社のスタッフに教えて貰いました。見た目ショボイので大丈夫かここ?と思っちゃいますが、結構登録されている先生も多く、よく使われているそうです。自分がレッスンを受けたいエリアを指定して先生を検索し、クレジットカード決済で申し込むと先生の連絡先が送られてくる仕組み。事前にレッスン料金や体験の有無、レッスン可能時間やプロフィールの一部が公開されているので、後は実際に会ってみて決めれば良いのです。大体一回のレッスンが1時間で、2,000〜4,000円/回くらいが相場でしょうか。まあお金払って連絡先を購入しても連絡取れない先生もいるのでそこは若干のリスクがありますが、余計な中間マージンを省いて先生と直接契約出来るのは合理的ですよね。という訳で、実際に体験レッスン受けてみて、良い先生だったので契約してきました。やっぱりマンツーマンで、対面レッスン、というのが良いと思います。来月から本格的にレッスンが始まるので、楽しみです♪



いやあ、しかしネットの時代って本当に色んな選択肢が安く得られて、良い時代ですね。活用しないと損ですよ!

尊厳死について

石原伸晃さん、えらく叩かれてますね…。実は尊厳死に関するエントリーを少し前に書いたことがあります。



欧米にはなぜ、寝たきり老人がいないのか



別に貧乏人に死ねと言ってるわけでもなんでもなく、個人としての人生の幕引きをどう考えるのかという、いわば人生観にまで関わるポリシーの問題なんですけどね。TVでちょろっと口にする事ではなかったかな。でもこの問題、社会保障の仕組みや財政問題に大きく影響し、若年層に未来の希望を持ってもらうという意味でとても大事なテーマだと思っています。エキセントリックに反応せずに、ちゃんと向き合って議論して欲しいな。

英語力

今、コンタクトのネットショップスタッフをハローワークで求人しているのですが、面白いもので英語力を応募資格に入れると途端に応募数が少なくなります。どれだけ英語コンプレックスが大きいのかと思いますが、もはやまともな仕事においては英語力は必須スキルになりつつありますね。ウチみたいな小さな会社でも、英語圏向けサービスもありますし、商品の仕入/販売で海外とやり取りすることは普通にあります。例え翻訳ソフトのお世話になるレベルであっても、そもそも英語でのコミュニケーションに尻込みするようでは仕事になりません。日本人は仕事で英語を使うと聞くともの凄く流暢に話せないとダメと思っちゃうのですが、こんなもん最後は相手と意思疎通する気持ちがどれだけあるかの勝負、要するに度胸です。相手だってネイティブとは限りませんし、インド人や他新興国の英語なんて訛り酷いですから、構える必要無いんですよね。と言いながら、英語の勉強しないとな、と自分を鼓舞しております。(笑)

2050年の日本

2050年の世界 英『エコノミスト』誌は予測する



最近、日本の未来が凄く気になるんですよ。年ですかね?(笑) 2050年の日本の状況は、このまま普通に進めばこのエントリーの予想に近い状況になるのでしょうね。さすがに年金が今と同水準で給付されているとは思えませんし、定年延長と再雇用機会の創出でもう少し現役世代の負担は減らせると思います。しかし根本的な日本という国の制度設計をやり直さないと、活力が出て来るわけがありません。



その意味では、アメリカという国は凄いです。バッサリと切るところは切り捨てて、伸びる要素を最大限に後押しする。自助努力を重んじる価値観を第一に、新陳代謝を促進する社会システム。確かに2050年でも2100年でも、大国の地位をキープしているでしょうね。



風雲児・電気自動車のテスラ…次のどんでん返しは?



自動車産業って枯れつつある成熟分野なんですけど、アメリカではこんな企業が生まれちゃったりします。その創業者のパーソナリティを知ると、いかにアメリカのベンチャー市場がリスクを取っているか分かります。大いなるカジノスタイル経済なんですね。張ってる金額も、リターンもデカい。賭場や貸し越しする資金窓口が整備されていて、世界中から一攫千金を目指してすばしっこいヤツが集まってくる。こんな場所は他にありませんし、真似も出来ません。



日本の立ち位置は? まあ、肉食君の隣にいる気の良い草食君ポジションなんでしょう。頭が良くて気が利く草食君なら、食い散らかそうとも思われないでしょうから、それなりに大事にされるのでは?(笑)

アジア地域の成長はどこまで続くか

日経新聞に、インドの自動車市場に伸び悩み傾向が見られる旨の記述がありました。最近中国も成長速度に陰りが出ていますし、世界の成長セクターと見られてきたアジア地域にもそろそろ成長の限界が見えてきた気がします。



確かに発展途上国である各国が、グローバル化の恩恵を受けて経済発展するのは自然な流れです。しかし、日本が戦後に遂げた高度成長と同じ成果を得られるのかと問われれば、それは大いに疑問だと思うのです。確かにシンガポールレベルの小国であれば、気の利いた為政者の政策で軟着陸出来るかも知れません。しかし、中国・インドクラスの大国にそれが可能なのでしょうか。日本は、明治維新の前から既に世界に冠たる経済活動と高い教育水準を実現していました。いわば、先進国としての基盤が既にあったのです。産業革命による先端の工業技術を導入するだけであっというまに世界の列強に仲間入りしたことは、白人中心の西洋社会には驚きでも私には当然の結果に思えます。



中国の政治体制がいびつである事は周知の事実です。資本主義経済と、一党独裁体制はどう考えても馴染まない。中国共産党の腕力でなんとか押さえ込んではいますが、いずれ民主化プロセスを経なければならないでしょう。その過程を混乱無しに乗り切れるのか、はなはだ疑問です。インドも同様に格差社会の矛盾を抱えています。30年現地に馴染む努力をしてきて成果を出したはずのスズキでさえ、暴動を押さえられないのが事実です。両国共に、本当の先進国への道は多くの人が考えるより困難な気がします。



イス取りゲームに乗り遅れまいと、各国の企業がブルーオーシャンを目指してアジア地域に進出しています。先行したシンガポール・香港、更にはマレーシア・タイ・インドネシア・ベトナム・ミャンマーetc.。確かにあるレベルまでの発展は約束されていると思いますが、あまり将来にバラ色の期待を掛けるのはどうなのでしょうか。今の時代、中間段階への発展はある意味簡単なんですよね。資本を入れて、水道や道路や鉄道や通信などの社会インフラを整備し、街をモノで満たしてやれば良い。一番変化しにくいのは、人の頭の中です。一度植え付けられた価値観や趣味・嗜好は、後から変えることは困難です。結局下の世代に世代交代する事でしか人の行動が変わらないなら、国全体の成熟に時間が掛かるのは当たり前なのです。中間段階の発展から、本当の先進国になるために必要なステップ、民主化や人権意識や無形の創造物に対する権利保護意識などを身に付けるのは簡単ではないと思います。



アジア向けのビジネスプランは、長期的なタイムスケジュールに基づいて立てないとダメなんじゃないでしょうか。30年、50年経っても、日本レベルに到達する国はあるのかな? 良い方に見通しが外れてくれれば、それはHappyな事なんですけど。

履歴書の書き方

立場上、沢山の履歴書を読んできました。そして、履歴書の情報だけで沢山の人をお断りもしてきました。面接に辿り着ける方、辿り着けない方。その違いはどこにあるのか、少しまとめてみましょう。



1.字の汚い方

 日常生活で、文字を手書きするシーンは本当に少なくなりましたね。年賀状の一言コメントくらいでしょうか。それでも履歴書は手書きで提出するもの、という不文律があります。それは何故か。やはりそこにその人の人柄、人間性が出るからです。書類の受け手が最初に目にするもの。それは封筒の宛名・差出人欄です。ここで半分くらいは却下したい気持ちになります。どうして丁寧な字を心掛けないのか。下手でも、丁寧に書こうとしているか走り書きかは一目で分かります。過去、雑な字で採用に至った人は一人もいません。面倒だと思う人は、数を減らして、一つの応募先にもっと神経を集中すべきです。



2.ストーリーが見えてこない方

 卒業した学校と、最初の就職先。そして辞めた理由と、次の転職先の選び方。ウチへの応募理由。ここに繋がりが感じられない方が多いです。これは生き方そのものである事も多いので小手先のテクニックで飾ることは出来ませんが、やはり過去の自分の経歴やスキルをよく吟味して、自分が活かせると思える応募先を選ぶべきです。この人はちゃんと吟味して応募しているのか、片っ端から手当たり次第書類を送っているだけなのか、選考者はよく分かっているものです。一貫した柱がある方には会ってみたくなります。



3.辞め方

 一番履歴書に書きにくいのが、前職を辞めた理由でしょうね。そして、ここが一番気になる点でもあります。最近は短い期間で転職を繰り返す人が多いですが、そういう人は選考しません。同じ事の繰り返しになる事が容易に想像出来るからです。正当な理由無しに、簡単に辞職してはいけません。正当な理由があるなら、それを思い切って明らかにしましょう。あなたの人間性が最も表れるポイントです。前職をけなすのは、別れた恋人をけなす事と同様に、あなた自身の価値を下げる行為だと認識しましょう。



4.応募理由

 実は、どうして応募したのか、という理由が不明確な方が多いのです。今はネットがある時代。恐らく多数の経営者が、BLOGなりtwitterなりFacebookなりを使っているでしょう。そこを少し時間を取って読んでみて下さい。共感出来ない経営者の会社に応募する気にはならないでしょう。お互い時間の節約になりますよ。応募する会社や経営者のイメージを想像して、そこで働く自分の姿を描いてみて下さい。波長の合う相手というのは、思ったより少ないものです。これは、と思う会社には、気の利いた応募理由が見つかるはずです。



恐らく上記のポイントを突破して面接に至るのは1/10以下なのではないでしょうか。履歴書を沢山送っている人は、やり方を見直して、一つのアクションの精度を上げる努力をしましょう。あなたが思っている以上に人事担当者が受け取る応募は多いものなのですから。